昭和52年05月22日 井上家霊祭
おかげを頂きました。今日のお花をご兄弟が二人で入れられたと、今朝から聞きましたが、大体つつじの花のお知らせは、心が不安定である時に頂くとお知らせ。その不安定なつつじの花を、菊は皆さんが、あのいつも頂かれるように、合楽の信心といわれておる。合楽のシンボルのようにいわれる花です。その合楽の信心によって、その不安定なものが、まとめてあって、それがなんとも言えん一つの形を形成しておる。それは大体今日のお祭りだと思いますね。
私ご神前で今日の、御礼のお届けをさせてもらいましたら、一番に頂くのは、かくという字を頂く、ウ冠におのおの、ウ冠と言う事は、井上一家と言う事でもありましょうし、又は宇宙のうですから、親神様の懐の中と言う事でもありましょうし、又はあの世この世をでやはり親神様の懐の中にある、それが一つになって、まとまっておると言う事、と言う風に思うんです。
もうこれだけでもほんとにあの、お祭りがどんなに大事なことか、この式年祭なんかが、いかに大事にしなければならないか、と言う言が分かりますですね。ほんとにあの何事にも信心になれよとおっしゃるですから、こと神様事、御霊様事というときにやっぱり日頃の信心が出てまいりますから、結局信心になるわけですね。今日はあの久富繁雄さんのこと、昨日今日のことをお祭りに繰り返しこう、頂くんですよね。今日の御霊様がやはり同じ名前です。
あの繁雄さんの繁という字、だからそんな係わり合いのことからだろうと思うんですけどね。昨日、一昨日、ここからの帰りに、洋服を自転車のハンドルにこう、引っ掛けて行きよって、その帰った時には財布が落ちとった、無くしておられるわけです。それであの、お金はまあ一万円近く入っておったそうですけれども、ご神米とあのお初穂がいつも、してあります。それがあのあくる日、お初穂やらご神米やらは、そこに丁度散らばって落ちてたそうです。
財布がなかったとお金がなかったっていう、でその話をあの西岡先生のところで、こげんじゃったちゅうたら、そんならあぁたです、私が財布を二つもっとるから、一つ差し上げましょうというてから、新しい財布を頂いた。あのお金を落とされたときにも、あのほんとにしかも神様へ向こうて帰りの道に、落としたことだからこれはもうおとり払いに違いはないと信ずる心が、そのお礼のお届けになっているんです。
またあくる日その新しい財布を貰われたっていうときに、もうそれこそ新しく買われたほうが、あの安くつきだんせんじゃろうか、というちゃんと思いを込めて、あの御礼のお届けがしてある。それで今朝からまたそのお礼のお届けがあるんですよ。私はその話を昨日の朝のご祈念の後に、ご理解の中に話した時に、ちょうど昨日は土曜で農休日でしたから、あの長男がお母さんを連れて、丁度お話の始まった時に、お参りしてきよったんです。そしてお父さんが財布を落とした話を聞いてですね。
あのまあすぐ感じたわけでしょう。繁雄さんが、昨日帰られたら、大黒さんの前に二万円金がおいてあるげなもん、こりゃどうしたっちゃろうかちゅうたら、あの国男さんていいますが、国男があのお父さんがお初穂にも不自由するじゃろうから、というてそこに置きよったよち、お母さんが言う。それでまた今朝から、それのお届けがあったんです。ですからね、何事にも信心になれよと言う事は、そう言う事だと思うですね。
もうひとっつも皆がおかげです。それをその落としたことも八千円、例えば損をした。二万円あがっとったとを、どこかよそから来たつなら、おかげと思うばってん、息子がやったちゃけん、あんまり有り難くなか、ちゅうふうじゃなくてね、もうどれもこれもが、あの有り難いお礼の対称になる事ばっかり、と言う様に何事にも信心になると言う事は、例えばお参りをしてからの、帰りの事であるから、これはお取り払いに違いはないと、信ずるところに、そういう信心が次に生まれて来ておる訳ですね。
それから人の真心を真心として受けて、有難いという時に、この真心が出ておるようですね。そしていうならば、あの子供が親の話をその丁度そん時に、お父さんの話がありよるときにお参りし合わせて、お父さんがお金を落とした、あんたが参ったちゃどうしたことの、というのじゃなくてね、お初穂にも事欠くであろう、というてそこに二万円置いてあった。なんとも言えんいうなら信心、真心神心というかね、いわゆる信ずる心、真心神心と言った様なものが、ここに交流しておるものを感じるんです。
そこにはなんにも、そこにどうしてとか困ったとか、しもたとか惜しかったとか言うようなものがない生き方。私は各々の心が天地の親神様のお懐の中で、起ることこの一切が、一つにまとめられる、それが今日のお祭りの、有り難いところではなかっただろうか、今日の御霊様が、今日のお祭りを受けられてひよっとすると、まあ不安定な心の状態でおありであったかもしれない。
けれども残って遺族の者兄弟みんなが、こうやって集まって、そしてそれこそ黄菊白菊の心を持って、あのお花が入れてあって一つの花が、なんとも言えん形に整えられたような、働きをしたことを、今日は花のお供えの中から感じさせて頂くです。もうほんとに、信心させて頂くのですから、お互いがこのことには信心になれるけれども、このことは信心にはなれないというのじゃなくて、もう何事にも信心になれよという、今日はそう言う様な、内容そういう感じのお祭りでしたですね。